討議資料・見解・私学おおさか
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2009/2/16
| 公費民営私学論 国民合意の「公費民営私学」を
| | 国民合意の「公費民営私学」を
大私教幹事会副議長 井上 明
この討議資料は、大私教結成30周年の記念誌として発行された『大阪の私学運動U』(1990年5月19日発行)に掲載されたものです。
1、高校生急減期の到来と公私共同3000万署名運動
1990年は大阪の高校にとって本格的な生徒減少の第一年目である。府下公立中学校の卒業生は1990年以降毎年数千人〜一万数千人ずつ減少し、21世紀に入ると急増のピーク(1987〜88)の六割を割る八万数千人台におちこむ。府当局は、公立中学校卒業生を七対三の割合(正確には71.5対28.5)で公立と私立に振り分け収容するという計画であるが、高校教育の内容と関わって、教育条件の改善や私立の父母負担の軽減、公私格差の是正などについては極めて消極的である。
大私教も大阪府高教など公立の組合も、“急減期こそ教育条件を国際的水準に改善する天与の機会に”を合言葉にそれぞれ急減期政策を発表しているが、大阪の高校教育を公立・私立ともいっそう魅力あるものにすること、そのために生徒急減という条件を生かして全国にも稀な“すし詰め・マンモス”を解消し、せめて40人〜35人学級にすること、視学の父母負担を軽減して公私格差をなくすこと、高校進学率を高め文字通り希望者全員入学を実現することなどが共通の主張となっている。大私教・府高教・
市高教の三者は、このような政策的一致とそれまで300万を超える私学助成要求署名の実績を土台に、1988年から広範な父母・府民とともに、「高校40人学級早期実現・私学助成大幅増額」を中心的要求とする450万署名運動をすすめているが、この運動はいま「公私共同3000万署名運動」となって全国に広がっている。これが政府・大蔵省による私学助成削減攻撃をはねかえす大きな力となっていることはあきらかである。
この間、運動の側の私学助成政策も大きな前進を見た。全国私教連は1989年5月、「急減期特別助成政策」を発表し、「3000万署名運動」の中心的要求に据えたが、これは経常費助成「二分の一天井論」の突破をめざす大阪・東京・愛知などの要求と運動を反映したものであった。
1987年11月、大私教小中高校部は大阪府岸知事宛「私立高校教育への助成の拡充と公私格差解消のための要求書」を提出した。それは生徒急減期の私学助成要求を「公私格差解消十カ年計画(案)」としてまとめたもので、
@ 私立高校がこれ以上学費値上げをせずにすむようにしながら、父母負担を軽減し、公私格差を年次的に是正・解消する、
A すべての私立高校が教育上適正な募集定員を守り、かつ1992年には40人学級を実現できるようにする、
B 老朽校舎の改築やプール・体育館・運動場など、基本的な施設設備を整備・拡充できるようにする、
を目標にしつつ、私学助成を経常費助成、父母負担軽減直接助成、施設設備費助成のそれぞれについて年次的に拡充することを要求するとともに、学費値上げの自主規制や教育費の漸進的無償化の展望も合わせて示すものであった(資料1)。
これらは、私学教職員と父母の要求をまとめて政策化したもので、その実現のためには、当面「二分の一天井論」に代表される俗流私学論の克服が避けることのできない課題になっているが、それは同時に国民の教育権を充足する新しい私学像、教育費の公費負担主義に立った「公費民営」の私学像について国民的合意を形成するたたかいでもある。
2、「公費民営私学」の必然性
京都や長野、岡山などの私教連が「公費民営私学」論を公然と掲げるようになったのは1970年代末から80年代初めで、その頃過疎地域での深刻な生徒減や大都市圏での生徒急増問題、そして学費問題の深刻化などを背景に、私学助成運動は新たな高揚を迎えつつあった。そのなかで私立高校以下への国庫補助は、70年代後半には年平均百億円以上の伸びを示し、私立高校の学費据え置きも大阪の1977年、79年のいっせい据え置きを皮切りに全国的な広がりを見せていた。その背景には、革新自治体による私学助成の拡充があったことは言うまでもない。
「公費民営私学論」の共通の特徴は、@大幅な公費助成で、私立高校の父母負担や教育条件を公立と同じにする、Aそのため私学を国民教育の場にふさわしく民主化する、B希望と条件によって公立と同じように学区制に参加する、などであるが、これらはそれまで社会党などによって主張された私学の「公立移管論」ではなく、学問の自由・教育の自由に立脚した「私学の自由」を積極的に擁護しつつ、国民の教育権に立った教育費の公費負担主義を公教育の場である私学にも貫こうとするもので、国際人権規約(1966年)の「中等・高等教育の漸進的無償化」という国際的流れに沿うものであった。
大私教がはじめて私立高校政策として「公費民営論」を打ち出したのは、黒田革新府政が倒された後の1980年9月、小中高校部第四回総会(桃山荘)においてであった。
討議資料「公費民営私学の検討を呼びかける」(資料2)は、私学助成の大幅増額による学費凍結と父母負担の公私格差是正、私学助成の“受け皿”である私学経営の透明性・公共性を高める措置を強く求めたうえ、「公費民営私学」の必然性を強調したものであるが、多くの不十分さにもかかわらず、80年代の自民党政府や岸府政による臨調・「行革」、臨教審路線の強行と切り結ぶ大私教の私立高校政策、特に私学助成政策の出発点となった。おりあたかも大阪府は生徒急増を乗り切るため「公私七対三社シェアー」による「生徒収容計画」を大阪私中高連との合作で策定した時期で、急減期を見越した急増期の私学助成のあり方など「私学振興策」が行政レベルでも俎上に上がっていた。大私教の「公費民営論」は、これと切り結ぶ組合側の先制的な提言という意味をもったのであった。
1980年の土光臨調によるニセ「行革」や「戦後教育総決算」をめざす臨教審路線は私学助成の抑制・削減、さらには高校以下への国庫補助制度の廃止などを打ち出した。これらは、革新の分断と革新自治体つぶしの攻撃ともあいまって、運動の側に一定の困難をもたらしたことは否定できず、そのなかで「公費民営私学」の声もかき消されたかのように見えるが、実はこれらの攻撃やそれとせめぎあう80年代の運動そのものが「公費民営私学」の必然性をますます明らかにしたのであった。次に大阪の場合を例にとってそれをあとづけよう。
3、岸府政の私学「振興」策
―――「民間活力論」と「多様化」のすすめ
1979年4月黒田革新府政にかわって登場した岸知事は、「公私相提携の高校教育」のスローガンこそ革新府政から引き継いだものの、公立高校増設を徹底してサボり、私立高校へは生徒増の20%を押し付けるという、安上がりのマンモス・すしづめ政策を強行した。私学助成について岸知事は、“生徒減少期に私学を一校もつぶさないために私学助成の大幅拡充を”という私学経営者の要望に対して「私学助成は万能ではない。特色教育が大切」と答え(1980年8月 大阪私中高連との懇談会)、また「私学振興策として公費民営の検討を」と迫った経塚府議(日本共産党)に対しては、「公費民営は、タバコ専売ならともかく、私学にはなじまない」と突っぱねる始末である(81
年府会総務常任委員会)。これらは、「特色教育」に藉口して、私学助成をサボることを表明したものにほかならない。
このような岸府政の80年代を通じての私学助成は、1983年8月の大阪府私立高校教育振興方策懇談会による『明日の私立高校教育への提言――激動期を克服し、21世紀への発展をめざす』(以下『提言』という)によって、具体的に示されている。
『提言』は、自民党政府の方針に忠実に、急増・急減問題をテコにして私立高校を受益者負担主義と「特色教育」の名による「多様化」の担い手にしようというもので、「私学をとりまく今後の環境条件が厳しければ厳しいほど、これまで培ってきたその活力と多様性を生かす私学独自の教育努力が強く求められている」といったくだりは、まさに第二臨調そっくりの“ハングリー精神”による「民間活力論」の鼓吹となっている。当時大私教小中高校部執行委員会が、討議資料「臨調路線による『私学振興策』は私学をどこへ導くか―――『明日の私立高校教育への提言』批判」でこれに反論を加えたのは当然であった。
いずれにしてもそれ以後の大阪府の私学助成は、この『提言』に沿って進められてきた。それは私学の教育と経営への攻撃を主要な側面としているが、私学の教職員や父母をはじめ広範な府民の「教育の機会均等」をめざす要求と運動を無視することができず、教育費の父母負担と教育条件における「公私格差是正」を謳わざるを得なかったことに注目する必要がある。以下、80年代の大阪府による主な私学助成策とその問題点を整理しておこう。
1、 経常費助成「二分の一天井論」による学費値上げのすすめ
大阪の私立高校の授業料等形状的納付金は毎年3.0%〜4.5%の値上がりを続け、1990年度の初年度納付金は55万4
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